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postheadericon 公民館で平和学習(2017年8月17日)

2012 - がん友、皿海英幸さんのエッセイコーナー

      公民館で平和学習(2017年8月17日)   皿海 英幸

 安倍総理は憲法九条を変えたいというし、北朝鮮は核を搭載できるミサイルの実験を繰り返している。「今、真剣に平和について考える必要性があるのでは」と思っていたが、旭公民館で平和学習を行うという回覧板が回ってきた。内容はビデオ上映「原爆の記録」「母たちの祈り」そして内田千鶴子さんによる被爆体験講話とある。
 
 内田さんは同人誌でお世話になっている方。そして私がエッセイを趣味とするにあたって色々指導をいただいた方。そういえば「内田さんに声をかけたら被爆体験を話してくださるだろうか」と数年前公民館の推進委員から相談を受けたこともある。よし、参加だな。

 ビデオ二本は正直言って途中眠気を感じてうつらうつら。午前中、職場でワックス清掃を真剣勝負のつもりで行ったから疲れたのかな。でも、被爆直後の惨状・治療風景はあまりに生々しく、「寝ていては申し訳ない」と思わせる。

 さて、その後の内田さんの体験談、いつものように、私の印象に残ったところを記してみたい。


 私が生まれたころ男は軍人、女は看護師さんが大好きという時代であり、「私は看護師さんになろう」と思っていた。看護師だと、親の仕送りがなくても勉強が続けられる。そこで大阪の大きな病院を受験し、どうにか合格した。

 そこの寄宿舎で勉強をし、看護師になれたら義務としてそこの病院に二年間は努めなくてはいけないというやり方だった。そしてそこを出たら、陸軍病院へ勤めることを希望する人が多かった。

 昭和十九年、広島日赤病院の看護師を希望。昭和二十年五月一日~七月三十一日軍隊式(戦地での看護のあり方)を学ぶ。郷里に帰ったが、八月六日広島に原子爆弾が落とされる。「日赤病院に被爆者救護に来てください」と電報あり。

 十一日広島駅に。駅からは一面焼け野原で何もない状態。午前中は姉の子を探しに市内を歩いたが、アスファルトは焼けており、「ニチャニチャ」していた。

 午後日赤病院へ白い薬を塗った人が(包帯は貴重品)多数玄関あたりから転がるように横になっていた。はえとか虫が来ても追い払う力もない。日赤の看護師になり、戦地の兵隊を助けようと思っていたが、被爆者を助けるすべがない。薬も注射も治療法も何もない。

 亡くなった人を焼くために運び出す毎日。名前を記録することもできず、「今日お宅の息子さんを荼毘に付しました」と家族に伝えても、どの骨かわからない。
 間もなく「戦争は終わった。日本は負けた」という情報が伝わると、「戦争が終ってから死にたくない。なぜもっと早くやめてくれなかったのか」と訴える青年がいた。

 九月十日、激しい下痢となり、食べられなくなる。脱水状態になる。仕事ができる状態ではなく帰省する。広島から帰った人は多数亡くなっている状況なので心配だった。数年がたち、症状が良くなってきた。無医村だったので「看護師になってください」という話があり、地域で少しずつ働き始めた。

 府中市出身の作家山城巴さんは戦時中、治安維持法により獄中に閉じ込められていたが、戦後は出られて活動を始められた。「日本が戦争をしたのは、女性がおとなしく、発言できなかったから。女性が強くならないと戦争はなくならない」と言われた。

 また、「誰でもみんなが意思表示できることが大切。そのため三人からでも文章を書きなさい。作家である私が作品を一人で書くより、百人寄れば、百人が一行からでも書き始めることが大切」と言われた。私はそれを聞き、自分史に取り組んだ

 憲法九条を変え、戦争ができる国にしようとする総理が出て以来、やりきれない思いをすることが多い。今こそ、広島の体験から学習し、戦争を起こさないため、みんなが意思表示する必要があるのでは。


 貴重な話を聞かせていただいた。内田さんは現在「今まで生きた自分だけの積み重ねを、三行からでも書いて、これから生きてゆく力にしてください。きっと楽しめます」と訴え、同人誌「おきゃがりこぼし」「地下水」を主宰されている。私は「おきゃがりこぼし」に参加し、つたないエッセイを発表させてもらっている。公民館で平和学習、良い企画だった。