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2012 - がん友、皿海英幸さんのエッセイコーナー

    父を見守る(2017年8月6日)    皿海英幸

 「じいちゃんの様態が良くないの。血圧が計れない、尿量が減った。看護師さんが『個室に変わったら』と言われるのだけれど、どうしよう」七月十七日十一時頃妻から電話。「個室に変わってもらおう。私もすぐに病院に行く」「すぐどうこうではないようだから、父さんは昼食を済ませてから来てね」「わかった」

 七月に入り、医師から「早ければ後二~三週間の命かも」と言われていたので、「そろそろ何があってもおかしくない」とは思っていたのだが。

 ご飯が炊けるよりは早いのではと思い、袋入りラーメンを作って早昼とする。いざというときはカップ麺の方が早く食べられるかもと思うがそれはない。

 病院に行き、妻と少し打ち合わせをする。妻と娘は昼食のため病院を後にする。父を見ると、呼吸が荒く苦しそう。でも、痰を取ってもらうと少し穏やかになった気がする。目つきが少し違うなと思っていると「瞳孔が開きかけています」と看護師さん。尿がほとんど出ないので、身体の末端にむくみがある。だから点滴はほとんど使えない状態。

 身体をなでたり、声をかけたりしても反応はない。ベッドのそばに座り、長期になってもいいようにと持参した本を読むがほとんど頭に入らない。「休日とはいえ、看護師さんだけでの対応。医師がまだ来ないということは緊急事態ではない。このままの状態で数日は持つのかな」と考えてみる。

 夕方になり、主治医が診に来られる。「良くないですね。今夜が越せるかどうか、厳しい状態です」と言われる。看護師さんは「今夜は泊まられますか。希望すれば泊まることができます。もちろん何かあったら電話をしますが、もしかして間に合わないということがあるかもしれません」「わかりました。泊まらせていただきます」ただちに簡易ベッド・寝具等が病室へ。

 いったん自宅へ帰り、シャワーを浴び、夕食をいただく。再び病院へ。

 ベッドに横にはなるが、なかなか寝付かれない。今後のことがいろいろ浮かんでは消える。「二~三週間の命」と言われていたのだから、「時間がなかった」とは言えないけれど、こういうことはなかなか前もって準備しておくということはできない。「少しでももってくれたら」と思うのが家族の情。

 午前四時過ぎだったか「脈が四十。家族に電話をしたら」と看護師に促される。妻、そして東京の姉に電話をしていると「脈が三十」「あっ二十」という声が耳に入り、気が気ではない。「すぐに行くからね」と妻。姉はすぐに来られないし、東京からでは間に合わないが、状況だけは数日前からことあるごとに伝えている。

 五時、主治医が来られる。「確認させていただきます」と言われ、父の身体を診てくださる。「五時七分、死亡を確認させていただきました」手を合わせ、父の身体に触れてみるが、まだ暖かい。もしかしたら、もしかしたら何かの拍子に生き返るのではと思わせる。でも、生き返っても本人は苦しい思いをするだけだから」と自分に言い聞かせる。駆け込むように妻が来る。調子を崩している娘や母を連れてくるかどうしようか躊躇しただけ、死に目に間に合わなかった。でも今までよくしてくれたからこれでいい。

 「帰られるように身支度をさせていただきます」と看護師。部屋を出ていると「書類を作成させていただきます」と事務職員。死亡診断書が作成され、受け取る。これは治療費とは違い、その場で現金を支払う。

 「葬儀社は決められていますか」「はい、できれば○○でお世話になりたいと思います」「では連絡を取り、専用車で迎えに来てもらいましょう」

 ほどなく葬儀社が迎えに来られ、裏口から父は退院する。父は生前「たくさんの人を招いて、バタバタしたり、気を使ったりしないで、お前はわしのそばについていて、最後を見送っていてほしい」と言っていた。そのため父の葬儀は「家族葬」と話し合って決めていた。葬儀社に着き、遺体を安置する。

 お寺に電話をし、枕経をあげてもらうよう伝える。七時半、お坊さんが来られ、枕経を上げられる。終わると、お通夜、葬儀等の打ち合わせ。十時からは葬儀社との打ち合わせ予定。忙しくなりそうだが、家族葬とはいえ、喪主を務める以上、精いっぱい頑張り、父の葬儀をやり遂げたい。

 ところで、父は九十四歳で亡くなったが、お坊さんの話によると、祖父も祖母も九十四歳で亡くなっており、これは非常にまれなこと。よし、私は九十四歳と一日生きることを目標としよう。皿海家の新記録目指して。